One's Note

一橋ロー入試対策情報・司法試験過去問・修習雑記

契約書の存否が契約締結の事実認定に与える影響

本記事は、修習中に自分がメモに書いたまま放置していた疑問点を自分なりに調べ、言語化しようと試みるシリーズの第1弾です。

1 契約書あり=契約存在、契約書なし=契約不存在?

 民事訴訟においては、金銭消費貸借契約や不動産の売買契約が締結されたか否かが争点とされることが少なくありません。契約締結を基礎づける証拠として、最も典型的なものが契約書です。言わずもがな、成立の真正に争いのない契約書は、契約締結の有無の判断を大きく左右する重要な証拠となります。最判昭和45年11月26日集民101号565頁も、「右各証(筆者注:売買契約公正証書を含む)の記載および体裁からすれば、別異に解すべき特段の事情が認められないかぎり、昭和三二年一一月一九日被上告人と上告人ら間に本件土地につき売買契約ないしは売買の予約が成立したものと認めるのが自然である」として、契約書に高い実質的証拠力を認めています。

 判示上は明らかではありませんが、事実上はその対偶も成り立つといってよいでしょう。契約締結を主張しながら契約書が提出されていない場合、契約の類型によってはそれだけで心証が契約不成立の方向に傾くことも往々にしてあり得ます。

 ここから、「契約書あり=契約存在、契約書なし=契約不存在」という事実認定上の図式が一応見てとれます。もっとも、前記判示にもある通り、「別異に解すべき特段の事情」という例外の余地が残されています。では、「別異に解すべき特段の事情」により、上記図式から外れた事実認定がされるのはどのような時なのでしょうか。修習中のメモ書きはここで途切れているので、以下、契約書が巻かれる目的に遡って考えることにより、考えを掘り下げてみます。

2 ツールとしての契約書

 そもそも、売買契約や金銭消費貸借契約は諾成契約なので、契約書を作成する必要はありません。なら、何故皆が契約書を作成するのか。それは、後日の履行を確保するために他なりません。後から「契約締結をした・していない」の水掛け論に陥ることを回避するために生み出されたのが契約書、というわけです*1。以下では、後日に契約締結の有無をめぐって水掛け論的紛争に陥ることを防止する目的のことを、「履行確保」と表記します*2

 履行確保の手段として契約書を捉えるのであれば、契約書の存否が契約締結の事実認定に与える影響は、個別具体的事案の下での履行確保の必要性(広義の必要性)及び契約書による履行確保の必要性を検討することによって判断することができそうです。

 ここでは、①契約類型上の履行確保の要請強度②当事者による履行確保の意思③代替的履行確保手段の有無という3つの着眼点を提唱し、これらの視点から契約書の存否が契約締結の事実認定に与える影響を考えてみたいと思います。

3 着眼点別の検討

⑴ ①について

 「実務上契約書を作成することが通常とされる(=契約書による履行の確保が強く要請される)契約類型かどうか」が重要な着眼点になります。

 例としては、不動産の売買契約が挙げられるでしょう。口頭での合意時期と履行の時期にラグがあることが多く、履行が確保できない場合には当事者に大きな経済上の不利益が生じますから、契約書によって履行を確保しようとする強い要請が働きます。だからこそ、成立に争いのない契約書が存在するのであれば、特段の事情がない限りその内容通りの契約が存在することが認定できます。 

 逆に、そのような契約類型でありながら契約書が存在しないとなると、契約が締結されたことについて相当程度の疑義が生じることになるでしょう。したがって、「契約書あり=契約存在、契約書なし=契約不存在」の図式が成り立ちます。

 逆に、合意と同時、又は合意後即時に履行がなされるのが通常であり、取引の規模も大きくない場合には、敢えて契約書を作成するほど履行確保の要請は強くないと考えられます。このような場合、契約書が存在しないことは、契約締結の有無を判断する上で決定的な事情とはならないでしょう(「契約書なし=契約不存在」とは限らない)。

 そういった意味では、①の着眼点は図式発動の前提条件となるといえるのではないでしょうか。

⑵ ②について

 「誰と誰の間の契約か」という属人的な事情や、合意の経緯に関する事情から、当事者をして後日の履行を確保しようとする意思があるかが分かります。

 当事者に後日の履行確保の意思があれば、契約書を作る必要性は高いので、「契約書あり=契約存在」の図式が成り立ちます。但し、後述するような特殊な例外が存在します。

 「契約書なし=契約不存在」については、契約が重要であれば成り立つ図式ですが、当事者の意思如何によっては契約締結が肯定されることも十分考えられます。

ア 「契約書あり=契約存在」の例外として、当事者が合意を仮装していた場合が挙げられます。不動産の売買契約書が存在するものの、実体は財産隠しが目的であるというような場合です。売買契約を仮装していたに過ぎない場合は、当事者に履行確保の意思がないため、契約書を作成する実益がありません。したがって、最終的な結論としては契約の締結を否定することになるでしょう*3

 なお、成立の真正に争いがない契約書が処分証書に該当する場合は、特段の事情を検討することなく記載通りの合意がなされた事実を認定することとされています*4。この見解と通謀虚偽表示等の意思表示の瑕疵の主張との関係については、別記事で整理する予定です。

イ 「契約書なし=契約不存在」の例外としてよく挙げられるのが、親族間での合意です。子が親から金銭を借りるようなケースでは、契約書が作成されないこともあります。その基礎には、「子が履行しない可能性を親が消極的に許容していることが多いから」という実情があると考えられます。

 他方、子の経済的独立性、親族関係の密度及び親族内での慣行によっては、「子が履行しない可能性を親が消極的に許容している」とはいえず、図式通りに心証形成されることとなるでしょう。

 

⑶ ③について

 契約書が履行確保の手段として用いられるとの理解を前提にすると、代替的履行確保手段が存在しないのであれば、契約書は契約締結を基礎づける極めて重要な証拠となり、「契約書あり=契約存在、契約書なし=契約不存在」の図式が非常に分かりやすいものとなります。

 もっとも、代替的履行確保手段が存在する場合には、「契約書なし=契約不存在」に例外を認める余地が出てきます。例えば、不動産の売買契約において、合意の際に買主が売主に対して現金で代金を支払い、売主が買主に対して登記に必要な書類を交付していたような場合が挙げられます。登記に必要な書類が買主の手元にあれば、移転登記手続は買主が行うことができるので、別途契約書を作成して売主による後日の履行を確保する必要はありません。このような場合には、売買契約書が作成されないことも十分あり得ます。

 金銭消費貸借契約において保証契約が締結されている場合はどうでしょうか。保証契約も代替的履行確保手段に位置づけられますが、金銭消費貸借契約とは別個の契約であり、当事者も金銭消費貸借契約とは異なるため、保証契約が締結されているからといって「別途契約書を作成して売主による後日の履行を確保する必要はない」とは言い難い気がします。また、保証契約が要式契約であることとの関係で、金銭消費貸借契約だけ書面を作成しないということがどれだけあり得るのかは気になるところです。個人的には、「契約書なし=契約不存在」の例外としてそれほど重視すべきでないように思います。

4 小括

 「契約書あり=契約存在、契約書なし=契約不存在」という図式がどこまで妥当するかは、①契約類型上の履行確保の要請強度②当事者による履行確保の意思③代替的履行確保手段の有無という視点から事案を分析することにより、ある程度線引きを行うことができそうです。大量の裁判例にあたって判断を覚えていくよりは、このような視点から事案を見てみる方が良いかもしれません(場合によっては、より説得的に説明できる視点が見つかるかもしれません)。

                                    以 上

*1:2022/9/27追記:契約書の機能には、①意思確認機能(軽率な意思表示を防止する)、②合意内容明確化機能(契約内容の詳細な部分まで明確にする)、③証明機能(後日の確認や、後継者や後任者への引き継ぎに資する)の3つがあると説明されます(中田裕康「契約法新版」有斐閣(2021)139-140頁)。当記事では、事実認定との関係で③の機能にフォーカスしています

*2:ポイントは「後日」の履行確保という点にあります。契約書の果たす役割からすれば、契約書は遅くとも合意時までに作成されていると考えるべきだからです。合意後、特に契約締結をめぐる紛争が顕在化してから作成・提出された契約書については、そもそも後日の履行確保の目的で作成されたという前提を欠くため、証明力は低いものとなります。

*3:もちろん、代金の授受や登記の移転時期といった外部事情からも契約が締結されていないことが推認できることが多いです。

*4:司法研修所編「事例で考える民事事実認定」法曹会[2014]、36頁

75期司法修習日誌②~導入修習~

1 導入修習とは

 導入修習とは、「導入」の名前の通り、裁判官・検察官・弁護士の各実務において必要となる基礎知識を叩き込み、実務修習への導入を行うカリキュラムです。期間は1か月少しと短いため、なかなか目まぐるしいスケジュールとなっています。

2 カリキュラムの概要

⑴ 総論

 まず留意していただきたいのは、「司法試験で問われることと修習で問われることは違う」ということです。

 司法試験は事実への法適用・解釈・評価の部分が重要でしたが、修習においては、証拠からある事実が認定できるか(事実認定)という部分が重要となります。事実認定については、言ってしまえば法律の領域の話ではありません。したがって、修習に先だって論証集を回すといった勉強は特段必要ないといえます。

 次に、導入修習のコンセプトですが、私は「崖から落としてうまく泳げないことを認識させ、どこを直せばよいか自覚してもらう」ものだと考えています。というのも、後述する事前課題も、即日起案も、最初からできるはずのないものばかりだからです。白表紙を読み込んで課題や起案に臨んでも、知識でっかちになって遠目で見ると説得力に乏しい、ということが起こり得ます。もしかすると、文章力に問題があったり、実体法や手続法の理解が怪しかったりすることもあるかもしれません。課題や起案を通してこれらの問題点を自覚し、実務修習で実際の事件に触れながら問題点を克服していってもらう、その機会として導入修習があるのでしょう。

⑵ 各論

 導入修習は、大きく分けると事前課題→講義→起案→講評の順で進みます。

 導入修習自体が始まる前の段階で、修習生には「紙爆弾」と称される段ボールが届きます。紙爆弾には、研修所作成のテキスト(以下、「白表紙」といいます)、導入中の起案で使う問題用記録、そして事前課題が入っています。

 事前課題は、その名の通り導入修習開始前までに取り組んでおかなければならないものです。これらは「導入始まるまでに一通り白表紙読んで概要掴んでおいてね」という研修所からのメッセージです。白表紙はいずれにせよ修習開始までに目を通すことになると思うので、読みながら事前課題を考えてみるというので良いと思います。

 導入の中心を占めるのは講義です。殆どは事前課題の解説で構成されますが、弁護士倫理や補充捜査に関する講義など、各分野固有の講義も実施されます。

 イメージとしては、ロースクールにおける双方向型授業に近い部分があります。教官が時々修習生を指名して、問答を行いながら話が進んでいきます。また、場合によっては修習生数名でのグループディスカッションを行うよう指示されることもあります。

 導入修習の比較的早い段階で、各科目の即日起案が実施されます。フルスケールではありませんが、形式は実務修習中の問研起案や集合修習における起案、そして二回試験と完全に共通しています。事前課題や講評で学んだことを活かして、修習での「起案」を体験しましょう。

 即日起案については、後日「講評」が行われます。問題の解説と併せて、修習生の起案に見られた問題点等を教官がお話しします。採点者による解説は実務修習以降の起案に直結するため、かなり重要です。

⑶ 私見

 導入修習は、全修習を通じて最も重要なカリキュラムだと考えています。その理由は、「『導入』ではあるが完結している」ことにあります。導入修習は全修習の骨格的な位置づけであり、実務修習は肉付けや修正、集合修習はその総仕上げを行うだけです。つまり、導入の段階が覚束ないと、後続の修習も効果が上がらなくなります。

 76期の修習生におかれましては、導入で「自分はどこに問題があるのか」を可視化し、実務修習に託せるようにしておくことに全力を尽くすことをお勧めします。

3 裁判官・検察官志望者の留意点

 導入段階では、教官は修習生の志望進路を把握することを行っています(修習採用選考申込みの段階でも希望度は記載するため、一応は把握しています)。志望する進路によって注力すべき点が変化することもあるので、既にJPで希望が固まっているのであればその旨教官に伝えておきましょう。1つに絞り切れていない場合も同様です。

                                   以 上

75期司法修習日誌①~合格から修習開始まで~

はじめに

 令和4年度司法試験に合格された皆様、合格おめでとうございます。

 この記事は、76期司法修習生となる方への情報提供もかねて、75期司法修習を集合修習まで終えた今の感想を綴るものです。修習生に向けて発送される資料で形式的な面は大体分かるので、総論は簡潔にして実際の経験メインで書いていきます。

 

 ①総論、②導入修習、③~⑥分野別実務修習4クール分、⑦集合修習の7記事構成になる予定です。導入修習・集合修習がオンラインだった点は76期と異なるので、その点はご了承ください。

 なお、修習中に気になって調べた論点に関しては別記事で整理します。

 ①の本記事では、以下の3つのトピックをお話しします。

・全体のカリキュラム

・修習地の決定

・修習までにすべき勉強

特に重要で、合格者の方が気にされているのは下2つだと思いますので、そちらだけ読んでいただいても大丈夫です。

 

 

1 全体のカリキュラム

 司法修習のカリキュラムは以下の⑴~⑷のとおりです。ただし、⑶⑷はA班の順で、修習地によってB班となった修習生は、順番が逆になります。

⑴ 導入修習

 導入修習は、1か月弱で、分野別実務修習に向けたインプットを行う期間となります。合格発表から修習開始までに鈍った?頭を叩き起こす機会でもあります。

 司法試験の内容と実務の内容はステップが異なるため、頭を切り替える必要があります。正直に言って余裕のあるカリキュラムではありません。

 各論記事で詳述しますが、個人的には修習において非常に重要な期間と考えています。

⑵ 分野別実務修習

 修習のメインです。裁判所、検察庁、法律事務所に赴いて、実務を学ぶことになります。8か月を占めるので結構長い…と思いがちですが、土日等を含めるとその期間はあっという間です。

 各修習の特徴は以下の通りです。

ア 民事裁判修習

 民事訴訟手続を傍聴し、主張分析や事実認定を学びます。弁論準備手続や和解といった非公開の手続にも同席できるのが大きな特徴です。扱う分野が相当幅広く、飽きることがありません。傍聴と起案が中心のクールとなります。

イ 刑事裁判修習

 刑事訴訟手続を傍聴し、争点・証拠の整理や事実認定を学びます。適正手続の要請が強い関係上、民事裁判の場合より手続面を重視しています(模擬裁判もあります)。また、大規模庁では裁判員裁判の評議を傍聴できることが多いです。家庭裁判所修習や模擬裁判もあるため、非常に忙しいクールです。

ウ 検察修習

 他の修習と異なる点が多い特徴的なクールです。①唯一、自身が主体的に動くことができます(動くことを求められます)。実際に事件を配点され、捜査指揮をし、取調べを行って、終局処分の決裁を得ます。「模擬」ではなく本当に事件処理をしますので、経験もまた深いものとなります。②同じ班の修習生全員と一緒に過ごす期間が最も長く、仲良くなる格好の機会といえます。

エ 弁護修習

 配属先の法律事務所にお邪魔して、指導担当弁護士の下で様々な書面の起案や期日への同行、接見同行を行います。指導担当によって実施する内容が異なること、修習生の監督を行うのが弁護士会でやや独立色が強いことから、最も自由度の高いクールといえるかもしれません。

⑶ 集合修習

 分野別実務修習(B班は選択修習も含む)を踏まえて、各分野の素養をまとめて仕上げていく期間です。もっぱら起案中心で、全て評価の対象となり、その合間にはグループごとの実技演習と起案の講評が続くという、なかなかハードな修習になります。

⑷ 選択修習

 選択修習は、個人が自分のやりたいカリキュラムを選択して修習を行う期間です。裁判所の専門部及び集中部並びに家庭裁判所検察庁、法律事務所のほか、全国の法テラスや民間企業で修習ができます。実務修習の延長版ともいえるでしょう。

2 修習地の決定

 1に記載した実務修習は、修習生が配属される修習地において実施されます。

 修習地の決定は、修習生採用選考申込者が最大6つの希望地を希望順に書き、それを司法研修所が特殊事情(通院、介護、配偶者や子の同居)にも鑑みて割り振ることにより行われます。修習地は、北は旭川から南は那覇まで全国にあるので、悩む方も多いことでしょう。

⑴ 選択のルールがある

 資料にも書いてあることですが、修習地の希望にはルールがあります。

 まず、大都市近郊の修習地は「第1群」に属し、2つまでしか書けません。東京、大阪、横浜というように、3つの大都市近郊修習地を希望することはできないわけです。

 また、6個希望する場合は「第3群」(いわゆる地方都市)も含んでいる必要があ   

ります。 

⑵ タイプ別の希望傾向

 周りの同期に聞くところの、タイプ別の希望傾向を書いてみました。

ア 観光地に行って楽しく過ごしたい!タイプ

 おそらく最大多数派。札幌・仙台・横浜・京都・神戸・福岡・那覇の7都市は特に人気が高いです。観光に行って遊びまくりたい、という典型的(?)な修習生のパターン。東京は枠も大きいので、それほど激戦にはなりません。ただし立川は枠が小さく、倍率はトップクラスとなっています。このタイプの修習生は、他の修習地希望をどうするか戦略を練る必要があります。

イ 地元(ないしゆかりのある土地)から通う!タイプ

 もともと都市圏の大学・ロースクールに通っており、就職先も同都市圏にある人に多く見られるタイプです。社会人経験のある方で家庭を持っている方も、移動を嫌って地元を希望される方をよく見ます。経費を節約し、修習給付金を最大限活用している方が多いです。また、新天地に来た修習生に頼られる立場になります。

⑶ 志望進路と修習地の関係

 修習地希望とは別に、進路の志望状況も最初の提出書類で記載することになります。 

 よく、「任官・任検志望者はどこどこに行った方がいい」という噂が出回っていることがありますが、修習地は選考とは無関係です。「修習地ごと」の任官任検枠というものは存在しないからです(志望先の偏りを修習地間で調整している可能性はありますが、いずれにせよどこに行っても志望倍率などはあまり変わりません)。

 進路志望に関する話はまた別の記事で書こうと思います。

⑷ 自分の感想

 私は、一度首都圏を離れてゆかりのある関西で過ごしたいと考え、希望地を関西・北陸・四国で固めたのですが、第3希望の大阪になりました。

 もっとも、結果から言えば大阪は非常に良い修習地であったと思います。

 修習面でいえば、どの方も非常に面倒見がよく、指導が手厚かったです。特に、大阪弁護士会はゼミを設けた実践的な演習の機会を設けてくださるなど、修習生の指導に非常に力を入れてくださっていると思いました。

 また、オフの面でいえば、近畿圏の観光が非常にしやすいので、観光したいタイプの方にもおすすめです。ごはんも安くておいしいですしね。自分は週末のタイミングを見つけてサイクリングに出かけたり、動物園や水族館に行ったりしてリフレッシュしていました。

3 おわりにー修習までにしておくべき勉強?

 いろいろ考えている方もいらっしゃいますが、時々思い出す程度に民法・刑法の実体的理解・両訴法の手続の流れを復習すれば十分です。余裕のある方は、要件事実を先に学習しておくと後々楽になっていくでしょう。個人的に、事実認定を先出しで学修するのはお勧めしません。司法研修所教官室の見解(白表紙)とずれると修正に余計な手間がかかるからです。

                                   以 上

伊藤塾の刑訴論証を見直す(後編)

こんにちは。

 

今般、質問箱に次のような質問が来ていました。

伊藤塾の刑訴論証で直したところはありますか?」

「(伊藤塾の論証について)以下を直してくれると嬉しいです。●強制処分の意義→採点実感で怒られた。●比例原則→誤った説明をしている。●所持品検査→論証がおかしい。●重複逮捕勾留の書き方がおかしい●公訴事実の同一性の論証」

 

今回の記事は、次回に引き続き、これらに対する返答・検証をしてみます。

 

1.重複逮捕勾留

 ここは伊藤塾の書き方がおかしいというより、論点の整理が必要な部分ではないでしょうか。私は当初から抱き合わせ勾留等・一罪一逮捕一勾留・再逮捕再勾留がごっちゃになっていました。

 そこで、論証の検討に入る前に、各論点の位置づけを整理してみます。あくまで受験生としての視点から再構成したものですのでご了承下さい。

(1)抱き合わせ勾留等と、逮捕前置主義/一罪一逮捕一勾留/再逮捕再勾留の違い

 抱き合わせ勾留等は、問題となっている逮捕勾留に先行する逮捕の存在を前提としません。これに対して、逮捕前置主義/一罪一逮捕一勾留/再逮捕再勾留は、先行逮捕の存在があってはじめて問題になります。

 以下に各論点の関係を図示してみました。赤の部分が問題になる部分です。

 

〔図1:各論点の関係〕

【勾留切り替え】

 逮捕(被疑事実A―――――→勾留(被疑事実B

【抱き合わせ勾留】

 逮捕(被疑事実A―――――→勾留(被疑事実AB

上2つは、あくまで「逮捕から勾留」の部分を問題にするのであり、これ以外に先行する逮捕等があるか否かは関係ない。

【逮捕前置主義】

逮捕(被疑事実A,違法――――→勾留(被疑事実A)

【一罪一逮捕一勾留】

逮捕(被疑事実A)―――――――――→勾留(被疑事実A)

      逮捕(被疑事実A')――――→勾留(被疑事実A')

※ただし被疑事実AとA’は実体上一罪の関係

【再逮捕再勾留】

逮捕(被疑事実A)――――→釈放――――→逮捕(被疑事実A)・勾留(被疑事実A)

 

下3つは、被疑事実Aでの逮捕があってはじめて問題になる。

 

この図1を前提に、(2)へ進みましょう。

(2)一罪一逮捕一勾留と、再逮捕再勾留の違い

 図1の【一罪一逮捕一勾留】【再逮捕再勾留】を見てください。一罪一逮捕一勾留は、「逮捕(被疑事実A)→勾留(被疑事実A)があるのに、被疑事実Aと実体上一罪の関係にある被疑事実A'での逮捕勾留がなされていること」が問題です。これに対し、再逮捕再勾留は、「一度釈放されたにもかかわらず、同一の被疑事実で逮捕勾留されていること」が問題です。

 逮捕勾留という一連の身体拘束を「→」で表すと、イメージは以下のようになります。

〔図2〕

【一罪一逮捕一勾留】*1

・――――→

   ・――――→

【再逮捕再勾留】

・――――→ ・――――→

 

(3)各論証の検討

 問題意識をある程度イメージしたところで、各論証を検討してみましょう。

ア 逮捕前置主義

 ご存じの通り、逮捕前置主義とは、勾留請求に先立つ適法な逮捕を要求する建前のことを言います。「前3条の規定により」(207Ⅰ)が明文の根拠として挙げられるでしょう。

 問題は逮捕前置主義の趣旨についてです。かつての伊藤塾の論証では、「身体拘束について二重の司法審査を経させる点にある」としていました。

 しかし、これで導かれるのは「逮捕と勾留の各段階で司法審査する必要があること」です。「逮捕を勾留に先行させる必要があること」までは導けません。

 身体拘束期間について、逮捕は3日間、勾留は原則10日間ですから、勾留の方が長期の身体拘束を伴うことになります。したがって、法は身体拘束期間が短い逮捕を先行させて、不必要な身体拘束をさせないようにしようとしているのです。これが逮捕前置主義の趣旨です。また、法が逮捕について不服申立ての手段を設けていないのは、勾留請求の段階で逮捕の適否を判断すべきことのあらわれでもあります*2

 以上を前提に論証化してみると、このようになります。

 

 「前3条の規定により」(207Ⅰ)の文言から、法は勾留について逮捕が先行していることを前提としている(逮捕前置主義)。

 逮捕前置主義の趣旨は、身体拘束期間の短い逮捕を身体拘束期間の長い勾留に先行させ、その各段階で司法審査を行うことにより、不必要な身体拘束を防止する点にある。また、逮捕について不服申立て手段がないのは、勾留段階で逮捕の適否を判断すべきことのあらわれである。

 したがって、手続遵守の保障と将来の違法捜査の抑止のために、違法な逮捕に続く勾留は許されないと解すべきである*3

 ただし、逮捕の違法が軽微な場合にまで勾留請求を認めないとすると、捜査の必要性を害する。

 そこで、逮捕に重大な違法がある場合に限り、それに続く勾留請求が認められなくなると考える。

 

イ 一罪一逮捕一勾留の原則

 伊藤塾のかつての論証は、「法が厳格な期間制限(203条以下)を設けた趣旨に照らし、同一の被疑事実に基づく逮捕勾留は原則として1回に限られる(一罪一逮捕一勾留の原則)。」というシンプルなものでした*4

 被疑事実Aと被疑事実A’が実体上一罪の関係にあるのにこれを切り分けてそれぞれで逮捕勾留することは、203条以下で定められた期間制限を潜脱することになり許されない、ということですね。

 ところが、最初に書いた伊藤塾の論証を再度見ますと、下線部を引いた問題意識の前提がいまいちあらわれていないように思われます。つまり、「同一の被疑事実」の定義がされていないのです。

 そこで、私は上の論証に続けて、「なお、ここにいう『同一の被疑事実』とは、科刑上一罪を含む実体上一罪の関係にある被疑事実をいう。」という定義を付け足していました。

 上記論証の展開後、問題になっている被疑事実どうしが「同一の被疑事実」といえるかを検討します。同一の被疑事実といえないのであれば、図1や図2で赤く図示した矢印の重複はないので、一罪一逮捕一勾留の原則には抵触しません。

 同一の被疑事実といえる場合には、それは法定期間制限を潜脱した逮捕勾留と評価され、一罪一逮捕一勾留の原則に抵触しますから、原則として逮捕勾留は違法になります。

 

 さて、ここで改めて考えて欲しいのは、①203条以下で定めた期間制限の「潜脱」にあたると評価される理由②論証に「原則として」という留保がついている理由です。

 被疑事実AとA'とが「同一の被疑事実である」といえる場合、通常生の事実は密接に関連しており、証拠も共通しているはずです。そうだとすれば、捜査機関は被疑事実Aに基づく逮捕勾留の期間内に、A'についても捜査を進めて同時に処理できるのが通常です(つまり、捜査機関に対し「AとA'同時に捜査できたでしょ」といえる)。にもかかわらず切り分けて逮捕勾留をして、身体拘束できる期間を伸ばすのは、捜査機関の怠惰だろうという話になります。これが「潜脱」にあたると評価される理由になります。

 もっとも、実体上一罪というのはあくまで法的な評価なので、常習一罪のように被疑事実A'がAに後行して生じたにもかかわらず実体上一罪とされる場合、捜査機関がAと同時にA'を捜査することは論理的に不可能です。ここに、一罪一逮捕一勾留の原則を徹底する不都合が現れます。そこで、この場合には例外的に一罪一逮捕一勾留の原則には抵触しないことになります。「原則として」の留保は、かかる例外の存在を前提として書かれている言葉です*5

 

ウ 再逮捕・再勾留

 ある被疑事実で適法に逮捕勾留をして一度釈放されたにもかかわらず、再度同一の被疑事実で逮捕・勾留するのが再逮捕・再勾留です。まずは、コアとなる論証を掲載します。

 

「 被疑事実●●に基づく逮捕・勾留は許されるか。

 ●●は、逮捕・勾留された被疑事実Aと実体上一罪の関係にあるから、Aと同一の被疑事実といえる。

 同一の被疑事実に基づく再逮捕・再勾留は、法が定めた期間制限の趣旨を没却することから、原則として許されない。

 しかし、刑訴法及び刑訴規則には、再逮捕を予定した規定が存在する(法199Ⅲ、規則142Ⅰ⑧)。したがって、再逮捕が全く許されないわけではない。また、再勾留を否定した明文の規定がないことから、再勾留も許される場合があると解すべきである。」

 

 (ア)先行逮捕が適法

 伊藤塾の論証は、再逮捕・再勾留が許容される要件として、①新証拠の発見など、事情変更による再逮捕・再勾留の合理的な必要性があり②逮捕・勾留の不当な蒸し返しとはいえないこと を挙げています。

 しかし、再逮捕・再勾留であっても、実体的要件として逮捕勾留の理由と逮捕勾留の必要性が認められなければならないことには変わりありません。新証拠の発見など事情変更があることは、再逮捕・再勾留において自明に要求されることです。期間制限の規定に照らし、再逮捕・再勾留において要求される逮捕勾留の理由・必要性は、通常のそれよりも加重されたものとして考えるべきでしょう。具体的には、①は「(犯罪の軽重及び嫌疑の程度その他諸般の事情から、)一度釈放された被疑者が再度逮捕勾留されることにより被る不利益を考慮してもなおやむを得ないといえる高度の必要性が認められること」と修正できます。

 ②はそのまま記載してかまいません。なお、①との関係で「①の必要性と不利益とを比較衡量した結果相当であること」を意味しているようにも思えますが、①にいう実体的要件としての逮捕勾留の必要性にほかならないものですから、違います。正しくは、「捜査経過や先行する逮捕勾留による身体拘束期間の長短に照らし、法が期間制限を定めた趣旨に照らしてもなお再逮捕・再勾留が許容されるべき事情がある」ことを意味します*6

 

 (イ)先行逮捕が違法

 伊藤塾は(ア)の論証を使わず、「適正手続の保障に照らし先行逮捕に違法があれば再逮捕・再勾留は原則として許されず、違法が軽微である場合に限り許されうる」とします(勿論、逮捕・勾留の実体的要件をみたしていることは必要です)。

 これは正しいので、そのまま論証として展開しても問題ありません。

 (イ)の場合、被疑者が釈放されたのは「逮捕が違法だった」のが理由ですから、適法に行われた逮捕勾留の「繰り返し」の場面ではありません。したがって、問題点を「先行逮捕に違法があり釈放された被疑者を、以後同一の被疑事実に基づき逮捕勾留することは一切許されないのか」とパラフレーズすることができます。

 そして、先行逮捕に違法があったからといって、その違法性の程度を問わず同一の被疑事実に基づく逮捕勾留が一切許されないとすると、捜査の実効性を害します(違法な逮捕に引き続く勾留が一定の場合に許容されることとの均衡も欠くことになります)。

 そこで、違法逮捕に引き続く勾留の適法性判断と平仄を併せるべく、先行逮捕の違法が重大であれば同一の被疑事実に基づく逮捕勾留は許されず、違法が軽微であれば許されると解することになります。

 

 

 

2.公訴事実の同一性

(1)「公訴事実の同一性」の意義―基本的事実関係同一説

 伊藤塾は、「公訴事実の同一性」について、判例と同様の基本的事実関係同一説に立ちます。論証は以下の通りです。

 

 「公訴事実の同一性」(312Ⅰ)が訴因変更の限界を画する趣旨は、被告人に対する訴追関心の拡張を禁止することにある。そして、新旧訴因が同一の刑罰権の範囲内にいえるといえれば、訴追関心の拡張にはあたらない。

 そこで、「公訴事実の同一性」とは、①新旧訴因に基本的事実の同一性が認められ、または②新旧訴因に罪数評価上の単一性が認められることをいうと考える。

 

 他説もいくつかありますが、判例を整合的に説明できないか、公訴事実の同一性を害する訴因変更が出来ない理由の説明が困難であるため、試験対策上は採らない方がよいでしょう。

(2)公訴事実の同一性の判断基準

 上記の見解を前提に、新旧訴因間で①②が認められるかを検討していくことになりますが、問題は①の検討方法です。

 ①は、より具体的には狭義の同一性があるかの問題です。狭義の同一性は、a.基本的事実の共通性とb.非両立性で判断されます。伊藤塾は、まずaを検討し、これだけでは基本的事実が同一であるか明らかでない場合に補充的にbを考慮する判断フローを採用しています。

 数ある判例の判断を整合的に解釈したものであるため、この判断フローをお勧めしたいところです(理論的な理由付けは特に必要ないところであると思います)。

 aは、社会的事実としての犯罪事実、すなわち法益侵害結果・被害者・被害物に着目して判断します*7。そのうえで、事実が重ならない部分が出てきた場合には、bを考慮します。

 たとえば、旧訴因が「Aは、令和4年5月12日午後11時30分頃、東京都国立市中1丁目路上において、殺意をもって、Vを包丁で一回刺突し、よってVを死亡させたものである。」、新訴因が「Aは、令和4年5月13日午後10時45分頃、東京都国立市北1丁目路上において、殺意をもって、Vを包丁で一回刺突し、よってVを死亡させたものである。」であった場合を検討してみます。

 法益侵害結果が人の死亡であること、被害者がVであることで新旧訴因は共通しています。したがって、基本的事実の同一性は認められます。しかし、犯行日時及び場所が異なるので、非両立性について検討してみます。同一人の死亡結果は1回しか起こり得ないので、両者は事実として両立しません。よって、事実の非両立性も認められます。以上より、新旧訴因には公訴事実の同一性が認められます。

 公訴事実の同一性については、あまり伊藤塾の論証をいじる必要はないかなというのが率直な感想です。もし古いテキストで異なる見解を採っていた場合は、上記の判断フローに修正してみてください。

 

                                    以 上

 

 

 

 

 

*1:このように逮捕勾留が並行しているイメージが分かりやすいですが、被疑事実Aの逮捕勾留期間満了日に、身体釈放を介さず実体上一罪の関係にある被疑事実A'で逮捕勾留する場合もこれに該当します。

*2:勾留については準抗告の対象となっていますが、逮捕に関連する準抗告は認められていません

*3:「手続遵守の保障」とは、違法な逮捕に続く勾留を認めず釈放することにより裁判所が手続違背を明らかにすることをいいます。「将来の違法捜査の抑止」とは、違法逮捕に続く勾留を認めないことで将来同様の違法な捜査が行われることを防止することをいいます。

*4:203条以下の期間制限の趣旨について敷衍します。身体拘束が重い負担を伴うことに照らして、捜査機関に対して所定の期間内で公訴提起等への準備を行わせるようにしているのです。

*5:「原則として」と書いておきながら例外に言及しないのは不自然ですし、かといって例外の場面でもないのに上記の説明まで書くのは分量過多になります。答案構成の段階で不都合を指摘すべき場面かを検討し、指摘が必要ない場合は「原則として」の留保を外して書くのがベターです。

*6:勾留の方が身体拘束期間が長いため、再逮捕に比べて再勾留の許容性は厳格に判断すべきでしょう

*7:自主ゼミにおいて「取り敢えずこの3つに絞って共通性を検討すると判例と結論が一致するだろう」という形で理解していただけなので、理論的な正確性は保証できません。「社会的なエピソードとしてみて、新旧訴因を一つの犯罪と評価することができるか」という視点で見ればOKです。

伊藤塾の刑訴論証を見直す(前編)

お久しぶりです。

 

今般、質問箱に次のような質問が来ていました。

伊藤塾の刑訴論証で直したところはありますか?」

「(伊藤塾の論証について)以下を直してくれると嬉しいです。●強制処分の意義→採点実感で怒られた。●比例原則→誤った説明をしている。●所持品検査→論証がおかしい。●重複逮捕勾留の書き方がおかしい●公訴事実の同一性の論証」

 

今回・次回の記事はこれらに対する返答・検証をしてみます。

 

※注意

私が伊藤塾で学修していた時点での論証を対象としています。近年の改訂により内容が変わっていることもあります。

 

1.伊藤塾の刑訴論証で直したところ

 

答えからいうと、大きく書き直したというものはあまりありません。呉講師の基礎本に記載されている論証が、伊藤塾の刑訴論証をアップデートしたものであるためです。

もっとも、BEXAの国木講師による刑訴論証講座を受け、自分で演習と検討を繰り返すなかで言い回しを改めたものはいくつかあります。

 

2.各論証の検討

(1)はじめに

 「伊藤塾の刑訴論証はやばい」というのは、司法試験受験生の諺かというほど良く聞く話です。おそらく古江本ユーザーやロー生が発生源と思われます。その割に、どこがどうおかしいのかを具体的に指摘したものは殆どないのが不思議なところです。

 本当は受験生自身がどうおかしいかを考えたうえで修正するのが最も勉強になりますけれど、私の鈍った頭をたたき起こすべく自分でも検討してみます。

 

(2)強制処分の論証

 伊藤塾が使用する論証は、大要以下のような流れで「強制の処分」(刑訴197Ⅰ但し書の定義を導きます。記憶している限り、旧版と新版が見られます。

〔旧版〕

①科学技術の発展により捜査が新たな権利侵害を伴う場面が生じつつある

②もっとも、権利侵害を伴う新たな捜査をすべて「強制の処分」と解すると真実発見の要請(刑訴1)を害する

③そこで、真実発見の要請と権利保護の調整の見地から、「強制の処分」とは、明示又は黙示の意思に反して重要な権利利益を侵害制約する処分をいうと解する

〔新版〕←GPS捜査に関する判例との関係ではこちらがおススメ

①強制の処分については、強制処分法定主義及び令状主義の厳格な制約に服する*1

②そうだとすれば、「強制の処分」は、これらの厳格な制約に服させる必要があるものに限られると解すべき

③そこで、「強制の処分」とは、明示又は黙示の意思に反して、重要な権利利益を実質的に侵害制約する処分をいうと考える

 

 良く叩かれるのは旧版③の下線部分です。「そもそも刑訴法が真実発見の要請と権利保護の調整を図るものなんだから、何も言っていないに等しい」ということですね。確か古江本でもそのように言われていました。また、①②の記述から反意思性と権利侵害性を導き出すには、もう少し行間を埋める必要があるでしょう。

 個人的には、反意思性と権利侵害性が導出される理由が分かりやすい新版の方をお勧めします。

 なお、私は新版①②③を圧縮し、「『強制の処分』(197Ⅰ但し書)とは、強制処分法定主義及び令状主義の厳格な制約に服させるべき処分、すなわち、明示又は黙示の意思に反して重要な権利利益を実質的に侵害制約する処分をいう。」と書いていました。

(3)比例原則の論証

比例原則に関する伊藤塾の論証は以下の通りです。

「任意処分であっても捜査比例の原則に服するのであり、無制限に認められるわけではない。具体的には、必要性、緊急性も考慮した上、具体的状況の下で相当と認められる場合に限り許容されると解する。」

 これは何ら誤りではなく、修正する必要はありません。最決昭51年3月16日刑集30巻2号187頁は、捜査を行う必要性(含:当該捜査手法を用いる必要性)と、当該捜査によって制約される権利利益の保護の要請とを比較衡量して判断しています。「緊急性」は、あくまで高度の必要性があることを意味しているにすぎないと理解されます。

 私もこれを使っていましたが、1文目については「任意処分は捜査の『目的を達成するため必要』な限度で許される(197Ⅰ本文)」という形で捜査比例の原則を具体的に示していました。

 かつて、ネットで捜査比例原則を「実体的真実発見と適正手続の利益衡量」と表現したものをみかけました。これが説明になっていないということは、(2)で書いた通りです(より具体的な根拠である197Ⅰ本文を示せば足ります)。これが伊藤塾の記述であることの確認は取れていません。

 

(4)所持品検査

 所持品検査に関する論証は以下の通りです。ちょっと伊藤塾の論証が見当たらなかったので、私が使っていたものを代わりに書きました。

「所持品検査は、「停止」させる行為(警職法2Ⅰ)に該当しないが、許されるか。

 2Ⅰの趣旨は、対象者の嫌疑を解消するために質問を実施継続することにあるから、「停止」は質問に付随する行為として許容されるものを例示したに過ぎないと考えるべきである。

 したがって、職務質問を実施継続するために必要な行為であれば、質問に付随する行為として許される。

 所持品検査は、口頭による質問と密接に関連し、職務質問の効果をあげるうえで必要かつ有効な行為であるから、質問に付随する行為として許される。

 付随行為と言っても任意に行うのであるから、原則として所持者の承諾を得なければならない。もっとも、行政警察活動の目的に照らし、捜索に至らない程度であれば、所持者の承諾を得ずに行うことも許される。」

米子銀行事件(最判昭53年6月20日刑集32巻4号670頁)をベースにした論証です。これが一番無難だと思います。ポイントは、所持品検査の適法性を「強制の処分」該当性という枠組みで論じないことです(まだ司法警察活動の段階に移行していないからです)。

 

後編に続きます。

*1:その趣旨は、手続・要件を法律で明示することで捜査権の濫用を防止することと、民主的授権を行う必要性に求められます。民主的授権の必要性というのは、国民の権利利益を侵害する捜査の手続や要件は、捜査機関でなく被処分者である国民自らが定めるべきである、ということです。

「MARCH以下・地方国立からでも予備試験・司法試験に受かりますか?」に対する一つの答え

 

こんにちは。

 

 先日、伊藤塾主催の高校生向け講演会と大学生協主催のパネルディスカッションに参加させていただきました。ご参加いただいた方々ありがとうございました。

 記事のタイトルの質問は、個人的に相談を受けたり講演会に参加したりする中でよく出てくるものです。皆さんも一度は聞いたことがありませんか?

 これに対する答えには毎度頭を捻ってきましたが、今回の一連の企画への参加を通じて、上記の質問に対する一つの答えが浮かび上がってきたので、私見として書き残しておくことにしました。上記の疑問を抱いたことがある方は参考にしてみてください。

 

1.「不可能ではないが難しい」が一般解

 上記質問に対する一般解は「不可能ではないが難しい」です。質問者が望む答えは「十分可能」なんでしょうが、留保なしでそう答える人はいないと思います。残念ながら、誰に聞いたところで返ってくる答えは同じです。では、なぜ「難しい」という留保がつくのでしょうか。

 

2.そもそも良い質問ではない

(1) 身もふたもない話ですが、上記の質問はあまり良い質問ではありません。口の悪い人だと、「そのような質問をする時点で厳しい」というような回答が返ってくる可能性もあります。

 不安な気持ちはわかるのでここまできつくは言いませんが、望むような回答はしてあげられないのも事実です。その理由について説明します。

(2) まず、「MARCH以下・地方国立からでも」というところは、所属の大学の序列(=地頭の良さとパラレルに捉えられることが多い)によって試験の合否が決まると考えてしまっていることを意味します。つまり、「敵を知る」ことが出来ていないことになります。*1 

 当たり前ですが、所属大学と試験の合否とは関係ありません。大学受験の突破に必要な能力と、実務家登用試験である予備試験・司法試験の突破に必要な能力とは全く違うからです。*2

(3) また、この点が今回の記事で最も述べたいことなのですが、大学の序列と試験の合否を単純に紐づけている点で、予備試験・司法試験に主体的に取り組む姿勢がないことがあらわれています。試験を受けるのは質問者自身なのですから、やってみないと分からないわけです。その部分についての認識が足りないと、このような質問が出てきてしまう。しばしば「自信がない」という理由に隠れがちですが、本質的な原因は試験との向き合い方にあるのではないかと思っています。

 この「主体的に取り組む」とは何か。簡単に言えば、「積極的に情報収集を行うこと」「自ら環境を変える努力をすること」です。SNSを使うのでもいい、書店で広告や書籍を見るのでもいい、講演会やセミナーに参加するのでもいい。勉強場所を変えるのでも、勉強仲間を作るのでもいい。重要なのは「積極的に」、つまり自分から動くことです。

 法曹を目指す人間は限られているわけですから、過大なコストをかけてまで広範囲に情報発信がされることはありません。法曹を目指す人が少ない環境では、情報は更に手に入りにくくなります。そうであるならば、自分から動いていくしかないのです。

 ところが、下位大学(このような言い方はしたくありませんが、予備試験・司法試験合格者の少ない大学を表現上こうします。申し訳ありません)の学生は、上位大学の学生と比べて圧倒的に動き出しが遅いです。動かないと情報が入らない*3にもかかわらず受動的で動き出しが遅いので、その分ディスアドバンテージを負います。先ほど述べたように、必要な能力を身につけなければならない点でスタートラインはどの大学も同じなのに、動き出しが遅いから「負ける」。本当にもったいないことです。

 やっぱりというべきか、この前の講演会・パネルディスカッション参加者の所属大学を見ると、大部分は上位大学の学生でした。他方、それ以外の大学の学生については多くても4,5名で、私の母校(下位大学に属します)の学生に至っては申し込んだ数名全員が当日欠席、先月行われた1回目の交流会は約半分が当日欠席、来週に行われる2回目交流会も1,2名が申し込んでいるにとどまっています。生協や、郵送によるお知らせをしてもこの現状なのです。

 高校生はともかく、大学1、2年生の8月というのも学習開始段階としては遅めであり、今回の講演等は実質的には学部予備合格を目指す"最後発組"に向けてされたものでした。私の大学時代よりよほど情報面で恵まれている今になっても、なおこれほどに腰が重いのか…と実感しました。 

(4) 予備試験・司法試験の実像を正しく捉え切れておらず、質問者に主体的意識がなく動き出しも遅い。このような状態で、予備試験や司法試験の合格を目指すのは「難しい」です。回答者は、言語化することはしないまでも、暗にこの状況を考慮して「不可能ではないが難しい」と答えているのではないでしょうか。

3.質問に対する答え

 まとめると、タイトルの質問はそれ自体に不合格推定を働かせる事情が内在している点で、良い質問とはいえない、ということでした。

 しかし、あえて答えるとすれば、「出来るだけ早い段階から、主体的に動いて合格に向けた正しい学習をすれば可能」ということになるでしょう。重要なのは自ら動き出すこととその早さ。やると覚悟を決めたならとっとと動き出すことです。

 私も情報収集に手間取り、動き出しが1年遅れた身です。どうかこの記事が、上位大学以外から法曹を目指さんとする学生の目に届くことを願います(それも現実にはかなわないのでしょうが…)。

                                     以上

 

*1:ここでは大学の"序列"について考えることはしません。

*2:相対評価の受験システムに慣れた人間は合格しやすい、という限度での相関関係はあります。

*3:動き出しの遅い学生が多い、ということは、成功体験をはじめとする有益な情報の蓄積も乏しいことになります。また、大学側も法曹志望者が少ないと把握した場合、情報発信をする頻度は下がります。これが下位大学が有する大きな弱点の一つです。もっとも、情報が大学によって遮断されるわけではないので、自分次第でいくらでも情報を手に入れられることは言うまでもありません。

短答式試験と論文式試験の関係

こんにちは。連日猛暑が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。

 

今回の記事は、予備試験の論文式試験の手応えがない方・短答式試験で不合格になってしまい来年に向けて学習をしている方・司法試験短答式試験で不合格になった方に見ていただきたいと思っています。在宅クラスマネージャ―として、あるいは同期として相談を受けていて思うことを書いた記事になります。当てはまらない方はご覧にならなくて大丈夫です。また、「お前まだ本試受かってねえだろ」というツッコミはご容赦いただきたいと思います笑。

 

 

1.現時点での勉強はどうなっていますか

(1)方法より比率を見直してほしい

 上記のどれかに当てはまる方は、少なからず自分なりの敗因分析をして、それに即して現在勉強されていると思います。例えば、「論文のインプット・アウトプットにムラがあったから、科目ごとの学習配分を見直そう」とか、「短答の対策時間が足りなかったから今年はしっかり短答をやろう」とか。

 その具体的な対策は人によると思いますが、短答と論文の配分にも目を向けていただきたいです。

(2)予備試験の場合

 短答式試験で不合格になっている場合は、短答:論文=6:4~8:2の範囲、ようは「短答の方が多いけど論文もやっている」状態にしておくことをお勧めします。法律科目だけで7科目あり、絶対量を確保しなければなりませんし、試験構造上短答に受からないと論文を書く機会すら与えられないからです。

(3)司法試験の場合

 司法試験の短答式試験で不合格になっている場合は、短答インプットの多寡にかかわらず「論文メインで、短答は直前にやる」スタンスがベターだと考えられます。

 え、短答で取れなかったんだから短答をしっかりやるべきでは?と思われるかもしれません。これについては2で詳しく説明します。

 

2.「短答さえ受かれば論文はいける」と「論文はいけると思うんだけど、短答が…」は違う

(1) 上の見出しは、各受験生がよく口にしたり、心で思っていたりすることを2つあげたものです(以下、「短答さえ受かれば論文はいける」をA、「論文はいけると思うんだけど、短答が…」をBとします)。読者の方にもいずれかが当てはまる方はいませんか?

 Aは、聞く限り「自分は論文の実力は十分あると思う。敗因は、あくまで短答式試験そのものにある」というニュアンスが強いです。Bは、「論文の能力に不安は感じていない。けど、短答式試験は経験がないor苦手意識がある」というニュアンスです。

 AとBは非常に似ているのですが、私はこの2つでは意味していることが全く違うと考えています。一言で言えば、両者の違いは「短答と論文の関係をどう捉えているか」です。Aは両者を区別してとらえており、Bは両者を同一線上に捉えています。

(2) 結論から言うと、Aは合格から遠のく思考であり、Bは合格に向かっている思考であると考えています。

 理由は簡単。合格に必要な要素は論文と短答とでほとんど変わらず、そのコアの使い方が違うだけだからです。その要素をそれぞれで切り分けて考えてしまうと、勉強の方向を誤る可能性が高まります。

 短答と論文の関係を数学で例えると、

短答=数学の公式を使って計算できるか(途中式は不要、公式を覚えていればよい)

論文=数学の公式を正しく使って計算できるか(途中式必要、正しい場面で公式を使えるように、公式の意味を理解している必要がある)

 という関係にあると思います。

 「自分は公式さえ覚えれば点数を取れるが、公式を覚えている量が少ない」(=A)、「自分は公式なら最悪現場で導出できる。ただ計算が遅いんだよね」(=B)という2つの相談があったとしたら、どうでしょうか。実力を伸ばしやすいのは後者、というのは明らかでしょう。

 予備試験や司法試験も一緒です。短答と論文のいずれも必要な能力を試すための試験制度であることに変わりはなく、短答式試験は時間などの制約から要求する範囲を限定しているだけ、ということになります。語幣を恐れずに言えば、ABのどちらを口癖としているかは、短答と論文の関係をどう捉えているかのあらわれということができるでしょう。

(3)(2)の話を裏付ける実際の例についても簡単に書いておきます。

 私の周りには、①合格推定が強くはたらく予備未受験のロー生②予備試験を突破している人③予備短答は何とかなるけど予備論文がうまくいっていない人④司法試験の短答式試験で不合格になっている人⑤予備の短答がうまくいっていない人がいます。

 やり取りの中で、①②にあてはまる人でAを言う人はおらず、Bに近いことを言っている人が大多数でした。一方、③④⑤にあてはまる人は殆どがAを口にしており、Bに近いことを言っている人はいませんでした。

(4) ここまでの話で何となく分かると思いますが、論文の勉強によって短答を解く素地も鍛えられますから、短答に集中する期間(短答プロパーのインプット、選択肢の切り方や時間配分など実戦的な練習をする期間)はそれほど長くする必要はありません。また、短答に関しては短期記憶を活かした方がコスパが良いので、出来るだけ近い時期に演習を行うべきです。2(3)で「論文メイン」を推奨したのは、こういう理由によるものです。

 

3.小括と次回の記事

 短答式試験論文式試験は、試験制度の関係でどうしても区別して考えがちです。しかし、本来的に求められるものは変わりません。

 敗因分析はピンポイントなミスに目が行きがちですが、よりマクロな視点から見直してみてください。

 次回は、「MARCH以下・地方国立からでも予備試験・司法試験を目指せますか?」というよくある質問に対する1つの回答を提示します。

                                    以 上